戦国時代はカカア天下

 日本の社会はオトコ天下からカカア天下への移行期にあるのではないでしょうか?実はこのことこそが復古的なことらしいのです。
 江戸時代がカカア天下であったことは最近よく知られるようになってきました。

 その理由のひとつに、江戸時代は参勤交代制のため、江戸の人口は男の方が4%も多かったためと言われています。

 ところがです。カカア天下は江戸時代からじゃなかったんです。

 すこし古い本ですが、2003年NHK人間講座テキスト『「男らしさ」という神話』 (大阪大学大学院教授(当時)伊藤公雄著)に引用されていたフロイスの書いたものを知って、新たな知識を得ました。

 参勤交代もまだない戦国時代、織田信長の厚遇を受けたポルトガル人宣教師フロイスはこのようなことを書いていたのです。

日本では妻が前で夫が後ろを歩く

 フロイスは文化の違いを語るなかで男女関係についてもかなり触れている。しかも、ヨーロッパと日本の男女関係を比較してみると、明らかに日本の女性のほうがヨーロッパと比べれば発言権も強いし、社会参加の度合いも高いということが、はっきりと書かれているのである。たとえば、夫婦で町を歩くときに、ヨーロッパでは夫が前で妻が後ろに付き従うというパターンが非常に多い。しかし、日本に来て驚いたことに、日本では妻が前で夫が後ろを歩くという(いわば「レディファースト型」といってもいいだろう)文化になっている。

妻が夫に利息を付けて金を貸す

 さらに、フロイスがびっくりしているのは、日本の女性が財産を持っているということだ。財産権の要求は、近代西欧の女性運動においてたいへん大きな課題だった。ヨーロッパの女性は、財産権、つまり固有の財産を持つという権利がなかったからである。だから、フロイスが、日本に来てびっくりしたのは当然だ。日本の女性は自分の固有の財産を持っているのだから。お金を持っているから、夫が困っているときには妻が夫に金を貸すことがある。しかもただで貸していないというのだ。しばしば高い利息を付けて貸している。つまり、夫婦の関係でも、当時の西欧社会と違って、個人と個人の関係がはっきりとわきまえられていたのである。

女性から言い出す離婚がかなりある

 女性が財産を持っているから、これも当時の西欧では信じられないことがおこる。女性から言い出す離婚というのがかなりあるというのだ。西欧でも離婚はあるけれども、男性が言い渡す形が普通であったという。 西欧社会では結婚した女性は、夫の許可がないと外出できない。女性は、男性のまさに所有物だったのである。しかし、日本では、西欧社会と異なり、女性は夫の許可など関係なく外出しているので驚いたとも彼は書いている。社会活動の自由ということでは、西欧と日本では少なくとも日本のほうが女性に有利な形で進んでいたのである。

女性がへべれけになるまで酒を飲む

 日本の女性はお酒を飲むなどということも書いている。西欧で女性がお酒を飲むことはまずないが、日本では女性がお酒を飲む。お祭りのときはへべれけになるまで酔っぱらう女性もいるなどということまで書いている。

日本では男性が料理をしている

 さらに男性にとってはショックなことも書かれている。日本では男性が料理をしていると、彼は書き残しているからだ。西欧社会では調理・料理はもっばら女性の仕事なのに、日本では男性が料理をしているというのだ。上流階級の男性でも、料理を作るために厨房に入ることを立派なことだと思っているという。よく「男子厨房に入らずは古くからの日本の伝統」みたいなことを言う人がいる。そんな日本のよき伝統を守りたい人は、戦国時代の伝統まで復帰して厨房にどんどん入っていただきたいと、ぼくなどは思う。

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 いったいなぜ、いつから日本は男尊女卑になったのでしょう?

 著者は、明治時代の「国民皆兵制」がその大きな理由の一つと書いています。

 男性しか対象になっていないのだ。つまり女性は兵隊になっていないのである。こう考えると、「国民皆兵」の制度の下では、国民というのは成人男性のことだということがよくわかる。明治国家では女性は国民ではない。「二級国民」といってもいいだろう。その理由は、兵役の義務を果たさないから、ということである。

 さて、国民皆兵制もなくなった現代日本では、男女の勢力関係はどう変わりつつあるのでしょうか?

 最近の統計では、30歳から34歳までの男子未婚率は約50%、同じく女子は約35%と、独身(特に男性)が増えているようです。

  →年齢別未婚率の推移

 さらに離婚率も高くなり、結婚しても3組に1組は離婚するそうです。(年間の婚姻数と離婚数の比較)

 「結婚し、夫は外で働き妻は家庭を守り生計を維持していく」という生活スタイルは明らかに変わりつつあるようです。

 やはり、時代は、オトコ天下からカカア天下への(再?)移行期にあるような気がします。

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 さて、もうひとつオトコ側の変化も目立ってきたようです。

 それはオトコがいわゆる「男らしさ」に耐えきれなくなってきたのでは?ということです。

 特に若い男の子が、就職難などで経済的自立に自信を失いがちであることも大いに影響があると思います。

 その反動が様々な社会現象に、両極端に現れているような気がします。

 育ちが良くて色白で小太りのオタクのような男の子たちが、おとなしい日常生活とは裏腹に、ネットの世界では過激な言動をしたり、一方的な暴力的傾向をゲームやアニメの主人公に託して発散させています。

 おそらく、ナイフで指先をちょっと切っても大げさに痛がるような男の子(30過ぎも)たちの多くが、顔を見せない社会では「勝利のために血を流して戦え!俺たちこそ優れた兵器を持っているんだ」みたいな観客的ヒロイズムに酔っているように感じます。

 これは「男としての弱さを隠したい」という衝動から生じているのだと思います。

 その反対に、「イクメン」とか「看護士」とか従来女性の仕事であったものを、何ら違和感なく受け入れている「柔軟な感性」の男子が多くなっていることも事実です。

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 伊藤公雄氏は前掲の本でこんなことを書いています。

ジレンマのなかの男の子たち

 過保護・過干渉のなかで実際はひ弱な男の子たち。その一方で、彼らの母親と並ぶもう一人の重要な「育ての親」であるメディアは、「戦え」「強くあれ」とつねに語りかける。

 「強くあれ」という過剰な<男らしさ>を要求する声と、実際はひ弱な存在でしかない自分。このジレンマが、自らの弱さを押し隠し、自らの「強さ」や「支配する力」をやみくもに確認すべく、男の子たちを過剰な「暴力」へと導いたと考えるのは、考えすぎだろうか。

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 私はこの「男の子」というのが、私たちオヤジ世代をも指しているように思えるんです。私たちも多かれ少なかれ同じ心境のときがあったし、今でもそのままの人も数多くいます。

 そして、その無意識のトラウマが「体罰問題」や「国家志向(自分を同一化できる権力へのあこがれ)」の遠因となっているような気がするのです。

 それは、日本だけでなく中国や欧米の国々でさえも。

 特に親や周囲から期待されてきたエリートとか、政治家を志した男(の子)たちの心理の奥底に、深く沈潜しているのではないでしょうか。

 伊藤公雄氏はこのような分析も書いています。

 ファシズムやナチズムの背景の一つに、近代社会の中で不安定な状態にある男たちが、社会全体を<男らしさ>で充満させることで克服しようとしたということがあるのではないか。実際ムッソリーニはこんなことを言っている「古い民主・自由主義的な小イタリアの残りかすに抗する、男らしさの復権としてのファシズム」と。

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 私たちオヤジ世代も含め、これからの家庭、社会、政治で考えるべきは「男の母性」「寛容という父性」という「新しい男らしさ」であると、私は思うのです。